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9月聞法会ふりかえり

歎異抄第9章を読みました。

 

第九章は「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころの候はぬは、いかにと候うべきことにて候やらんと。」

 

という唯円さんの親鸞聖人へのぶっちゃけた質問から始まります。この時、唯円さんは30代半ば。親鸞聖人は83、4歳でした。

 

この質問に対して「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」と答えられます。

 

そして「よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定まるとおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたもしくおぼゆるなり。(後略)」と続いていきます。

 

ことし3歳になる息子がおりますが、生まれた時はまさに天に踊り地に踊るほどの喜びでした。ともに過ごせる今もこの上ない喜びですが、他の子とくらべどうしてうちの子はと思ってしまったり、言うことを聞かない時にはイライラしてしまうこともあります。


煩悩具足の凡夫よと呼びかけられなければ、自分の煩悩に気づくことはできません。


そう気づくことがなければ、どうすれば子どもが言うことを聞くようになるだろうかと頭を悩ませるばかりで、本当の意味で子どもと出会うことはできないのかもしれません。

 

 つづく