沿革

 明応年中(1492~1500)ごろ摂津国豊島郡萱場村(現在の大阪府北西部)にて創建されました。

開基は明覚房とよばれるひとです。

これは寺に伝わるご絵像の裏書にてよって確かめることができます。

明覚房の出自は不明ですが、本願寺第九代門主、実如上人(蓮如上人の五男)の弟子として念仏の教えをいただかれたひとであったようです。

明覚房は師の許しを得て、念仏の教えを聞く草庵を開いたのでした。これが徳誓寺のはじまりです。

 

寺の由緒書きには明覚房から第六代目願誓までの記録が欠けているので、この頃の徳誓寺の姿は明らかにすることはできませんが、この間に活動の場を摂津国から信濃国へ移し、信濃国勝善寺の末寺として念仏の教えを広めていたようです。

 

摂津国から信濃国に移った理由はわかりませんが、この頃の浄土真宗を取り巻く歴史を見ると、本願寺11代門首、顕如(1543〜1592)が織田信長の石山本願寺明け渡しの要求を拒否したことにより石山合戦(1570〜1580)が起こっています。

 

石山本願寺は現在の大阪城にありました。当時の徳誓寺は大阪にあったので、もしかしたらそのあおりをうけて信濃国に移ったのかもしれません。

 

そして寛永(1624〜1645)から万治(1658〜1661)の頃に信濃国から三条へやってきたと推定されます。

はじめは現在地の八幡小路ではなく、当時の水運交通の要地であった石上にて草庵を結んだようです。徳誓寺のご門徒が石上一帯に多いのはこの裏づけでしょうか。

 

すこし時代を経て現在地の八幡小路へ。

三条新城築城に際して移転を命ぜられたからなのか、信濃川大改修にともなう新開地を求めてのことなのか、理由は伝わっていません。また、いつごろ移転したのかも不明です。享保3年(1718)の三条町略図には徳誓寺の記載を見つけることができます。

 

その後、文政の三条地震(1828)に罹災し、本堂が全潰し全焼。また、上町ぬし屋火事(1862)、古城町大火(1880)などの火災にも罹災します。この時に、寺の歴史を記した文献などを焼失したものと思われます。

 

平成四年(1992)に現在の本堂が落慶。現在に至ります。

 

宗派

浄土真宗佛光寺派

 

代表役員 

住職 福井憲雄

当院 福井智弘

年中行事

2月 新年総会

3月 初お講・合同年忌法要(春)

4月 花まつり

6月 婦人会総会

8月 盆参会(新盆)・称名講

9月 合同年忌法要(秋)

10月 報恩講


お寺ヨガ、コンサートなども不定期で開催しています。

     

墓地について

個別墓地、合葬墓がございます。

防火のため、ごみ箱等は設置しておりません。お墓のお花・線香などは折を見て集めています。取り残しがありましたら水道脇に置いておいてください。お盆のものは業者さんに集めてもらっています。