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5月聞法会ふりかえり

歎異鈔第六条を読みました。私は通夜のため不参加。住職がお話しさせていただきました。

 

第六条では「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と語られます。この言葉が語られた背景はなんでしょう。

 

住職が松本梶丸著『生命の見える時一期一会』(中日新聞本社)の文章を紹介してました。

 

「絆はまた葛藤でもある」(中略)たとえば親の子に向ける愛は、その絆の深さにおいて最たるものであろう。

しかし、その愛という絆の深さゆえ、葛藤もなんと深いことであろうか。一見、無償ともいえる愛であっても、その愛にこたえてくれない時、その愛が報われない時、愛はたちまち嘆きに変わり、憎しみにすら転ずる。〈こんなにもお前のことを思っているのに〉と。愛憎は決して対極にあるものではなく、いつも表裏である。小芳さんは「葛藤の根元は、我執我欲のわが身であった」とおっしゃる。愛の裏面には絶えず、親は子を、自分の思うようにしたい、そのことで自分が傷つきたくないという、我執我欲があるのであろう。そのどこまでも我という思いに執して解放することのできない愛に、相手も苦しみ、自分も苦しむ。(中略)私たちは教えという光や鏡に照らし出されることなく、その事実は見えてくることはない。見えてくることがない限り、葛藤の中で傷つけ合うだけではないだろうか。そういう事実が見えてくれば、人間は少しは謙虚になるだろう。絆という葛藤からも解放されるのではないか。

「矛盾をなくして解決していこうとするのが、倫理道徳である。矛盾のまま、どうすることもできないこの身に頭が下がっていくのが信心である。」安田理深先生の言葉である。

 

親鸞聖人にも葛藤があったのかもしれない。我執我欲のわが身をだれよりも教えに聞いていかれたのが親鸞聖人という人なのでしょう。「親ガチャ」という言葉がありますが、私も我執我欲のわが身を絶えず聞いていかねばならんなと思う今日この頃です。