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4月聞法会ふりかえり

歎異鈔第五条を味わいました。私がお話しさせていただいたことをまとめてみます。

 

第五条を読んで、まず「むむむ?」と思うのは、

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」

(わたくし親鸞は亡き方を思ってその人が死後も安らかでありますようにと追善供養のために念仏したことは一度もありません)

という一文です。かなり刺激的なコトバです。

 

これはどういうことなんだろうということで、「報恩の仏事」ということを紹介させていただきました。

私たち真宗門徒は親鸞聖人の御命日にあわせて「報恩講」という仏事を営みます。なぜ亡くなった日に合わせて仏事を営むのでしょう。

 

「人生に無駄なことは、何一つありません。病気も、死も、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。そして、死は、多分、私からあなたへの、最後の贈り物になるはずです」

 

とは、41歳で3人のお子さんを残されて浄土へ往生された平野恵子さんの言葉です。

 

「亡き人を前にして生まれてくる悲しみの深さは、その人から贈られていたものの大きさです。その死に深い悲しみを持つということは、実はそれだけ贈られていたものがある。ですから、その贈られていたものを受け止め直すということが、後にのこった者の、大きな仕事だと思います。」

 

とは、大谷派の宮城しずか先生の言葉です。

 

「報恩の仏事」とは、宮城先生の言葉をお借りすれば、「贈られていたものを受け止め直す」ということなのではないかと私は味わっていて、追善は、私から亡き方へという方向ですが(そこには、供養してやっているという思いが離れない)報恩は、なき方から私へ、もっと言えば阿弥陀仏から私へという方向です。追善と報恩では方向が全く逆なのではないでしょうか。

 

悲しみを引き受ける、死を受け止め直すというところに促されてくる「念仏者の歩み」があるのではないか。そんなことが確かめられているコトバなのではないかということをお話しさせていただきました。

 

あと、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という言葉から、一切の有情がいつかの父母兄弟であったとうなづかされてみれば、父母の追善供養のためだけに念仏するということが、どれだけ狭い世界なのかということが教えられてくるということで話しさせていただきました。

 

人類の祖先は数百万年まえから地球上に存在していたそうですが、ゴキブリはいつからこの地球上に存在しているかご存知でしょうか。なんと3億年前にはいたそうです。私たちにとって害虫でしかありませんが、他の生物の死骸や、動物のうんちを食べて、環境を浄化してくれるなんともありがたい存在なのだそうです。人間は環境を汚すことしかできません。もしゴキブリが地球上からいなくなれば私たち人間の生存もあやぶまれます。人間はあらゆるつながりの中でいのちをつないできているのでした。

 

そんなことをお話しさせていただきました。